勝海舟の家系図から子孫の今!勝海舟の仕事や年収から蘭学への生き様を!

勝海舟は幕末から明治と、激動の時代の変わり目に大きな役割を果たした人物です。

勝海舟の子孫には誰がいるのでしょう。

勝海舟の仕事や年収が気になりますね。

勝海舟の家系図や年収について調べてみました。

勝海舟の子孫は海舟の名を吹聴せず控えめな生活を?

勝海舟の玄孫にあたるフリーライターの高山みな子さんは、海舟の三女・逸子さんのひ孫です。

小学生の頃、学校の授業で咸臨丸の船長が勝海舟だったことを親御さんに話したところ、自身がその勝海舟の子孫であることを知ったそうです。

勝海舟の子孫の方々は、勝海舟の子孫である事を吹聴せず控えめに生活されているのですね

 

勝海舟の子孫は今何人?

勝海舟の子供は9人です。

(長女)内田夢:1846年(弘化3年) ~ ?)

  • (次女)疋田孝子:1849年(嘉永2年)~ ?)
  • (長男)勝小鹿:1852年(嘉永5年)~1892年(明治25年)
  • (次男)勝四郎:1854年(嘉永6年)~1866年(慶応元年)
  • (三男)梶梅太郎:1864年(文久3年)~1925年(大正14年)
  • (三女)逸子(詳細不明)
  • (四女)八重(詳細不明)
  • (四男)岡田義徴
  • (五女)妙子(詳細不明)
NHK好き主婦(笹木たえ)
NHK好き主婦(笹木たえ)

長男・小鹿の子供(海舟の孫)伊予子は徳川慶喜の息子である精と結婚しており、徳川家とのつながりもあります。

この伊予子から続く系譜が勝海舟の直系であり、5代目当主の勝芳邦さんは、2016年に亡くなっています。

勝海舟の三女である逸子さんのひ孫にあたる「高山みな子」さんは、勝海舟の子孫と確認されており、現在「勝海舟の会」顧問をされています。

勝海舟の子孫は現代も続いています。

NHK好き男性(田中正吉)
NHK好き男性(田中正吉)

勝海舟の長男「小鹿」から続いている直系の子孫が石川県に、三男の梶梅太郎から続いている子孫がアメリカのペンシルバニアに暮らしているようです。

勝海舟の子孫たちは現在、執筆や講演活動を行っている!

勝海舟の玄孫にあたるフリーライターの高山みな子さんは、海舟の三女・逸子さんのひ孫です。

「鎌倉谷戸の工房」というガラス彫刻の工房を持つ工芸家でもあります。
小学生の頃、学校の授業で咸臨丸の船長が勝海舟だったことを親御さんに話したところ、自身がその勝海舟の子孫であることを知ったそうです。

その後、勝海舟について学び、今では勝海舟に関する講演なども行っています。

咸臨丸子孫の会は、咸臨丸の乗組員の子孫を「正会員」として組織された会で、咸臨丸ゆかりの地の訪問や講演会活動、資料の収集などの活動を行っています。
この咸臨丸子孫の会は海舟の玄孫である、フリーライターの高山みな子さんも行事に参加しています。

その他にも軍艦奉行の木村芥舟や、航海長の小野友五の末裔たちも、会に参加して交流を続けているようです。

 

時代を経ても、先祖の繋がりで集まるなんて、ロマンがありますね。

勝海舟の仕事や年収は?偉人の年収houmuch?

勝海舟は65歳からなくなるまで天皇の求めに応じ重要な国務について意見を述べる明治政府の高官、枢密顧問官を務めます。

この頃の年収は1憶2000万円と言われています。

勝海舟の家系図は?

勝海舟の子供は4男5女の9人です。

  • (長女)内田夢:1846年(弘化3年) ~ ?)
  • (次女)疋田孝子:1849年(嘉永2年)~ ?)
  • (長男)勝小鹿:1852年(嘉永5年)~1892年(明治25年)
  • (次男)勝四郎:1854年(嘉永6年)~1866年(慶応元年)
  • (三男)梶梅太郎:1864年(文久3年)~1925年(大正14年)
  • (三女)逸子(詳細不明)
  • (四女)八重(詳細不明)
  • (四男)岡田義徴
  • (五女)妙子(詳細不明)
NHK好き主婦(三村和子)
NHK好き主婦(三村和子)

若くして亡くなった子供もいますが、4男5女と結構な大家族ですね。

勝海舟の孫

  • 梅久(ウォルター):1886年(明治19年)~1977年(昭和52年)
  • 和気(アディライン):1887年(明治20年)~1959年’昭和34年)
  • 喜乃(ウィニフレッド):1889年(明治22年~1957年(昭和32年)
  • 幸(メーベル):1890年(明治23年)~1965年(昭和40年)
  • 礼(エルザ):1892年(明治25年)~1963年(昭和38年)
  • 勇(ヒルダ):1896年(明治29年)~1997年(平成9年)
    勝家
    初代 勝 命雅(のぶまさ)【1710~1777】

    はじめ御鉄砲玉薬の同心をつとめ、表火番、支配勘定を務めたのち、1752年(43)に旗本に取り立てられ、御材木石奉行に転じ、1768年(59)に御広敷番頭に移りました。享年68。

     妻は三浦氏。
    二代 勝 曹淓(ともみち)【1745~1783】
     勝命雅の長男、母は三浦氏。
     1776年(32)に大番となり、1777年に33歳で家督相続しました。享年39。
     妻は旗本 加治忠倫の娘。
    三代 勝 元良(もとよし)【1767~1808】
     旗本 青木長国の三男、母は勝命雅の娘。
     曹淓の婿養子となり、1783年に17歳で家督相続しました。支配勘定などを務めた。享年42。
     妻は勝曹淓の娘。
    四代 勝 惟寅(これとら)【1802~1850】
     男谷忠恕(平蔵)の九男。通称は小吉、左衛門太郎、号は夢酔。
     1822年(21)に勝家の婿養子となりました。一生無役(小普請組)で、猟官運動をしても職に就けず、刀剣の鑑定などで生計を立てました。1838年に37歳で隠居しました。享年49。
     妻は勝元良の娘 のぶ。
    五代 勝 義邦(よしくに)【1823~1899】
     勝惟寅(小吉)の長男、母は勝元良の娘。通称は麟太郎、名はのちに安芳。号は海舟。

勝海舟の幼少期はどんな風に過ごしてた?

勝海舟は幼少時の文政12年(1829年)、男谷の親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府11代将軍徳川家斉・の孫・初之丞(家斉の嫡男で後の12代将軍徳川家斉の五男、後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されています。

一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早世したためその望みは消えることとなります。

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らしています。

実父の勝子吉が書いた「夢酔独言」に依ると、『岡野へ引っ越しへて2ヶ月程、段々脚気も良くなって来た。9歳になった息子が御殿から下って来たので、本の稽古に3つ目向こうの多羅尾七郎三郎と云う用人の処へ通わせていたが、ある日その途中の道で、病犬に出会って金玉を噛まれた。』との記述があります。
  • 本の稽古(現在の学習塾に相当)の帰り道に海舟が野良犬に襲われ、野良犬が袴の中へ潜り込み、陰嚢を噛み切られて睾丸が露出する程の裂傷を負いました。
  • 花町の仕事師八五郎と云う者が海舟を救助して、自宅に上げ医者を呼ぶなどの世話を行います。自宅で寝て居た小吉の元に知らせを入れ、小吉が八五郎の家へ向かいました。
  • 既に成田と云う外科医が呼ばれて居て、小吉が「命は助かるか?」との問いに「難しい。」と回答します。
  • 海舟を自宅へ連れて帰り、地主が呼んだ篠田と云う外科医に傷を縫合してもらいます。
  • NHK好き男性(田中正吉)
    NHK好き男性(田中正吉)
    • 医者の手が震えていたため海舟は泣きわめいたが、小吉は枕元に刀を突き立てて「ここで死んだら犬死に」と言い聞かせ黙らせたそうです
  • その外科医に様子を伺うと「今晩持つかどうか保証出来ない」との診断で、生死を彷徨う重症だったそうです。
  • NHK好き主婦(三村和子)
    NHK好き主婦(三村和子)

    小吉はの裸参りを行ない、金毘羅へ願掛けい、毎晩水垢離をして祈ったそうです。

  • 始終小吉が海舟を抱いて眠り、他の者には手を付けさせなかったそうです。幸い快方に向かい陰嚢の傷も癒え、野良犬に襲われてから70日目には、日常生活が出来る程に回復したそうです。
  • NHK好き主婦(鈴村春子)
    NHK好き主婦(鈴村春子)

    この事件がきっかけで犬が苦手になり、大小を問わず犬を晩年迄苦手にしていたようです。

勝海舟が蘭学に興味を持ったきっかけは?

勝海舟は赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし蘭学を学びます。

弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移り、更に後の安政6年(1859年)7月に氷川神社の近くに移り住むことになります。

NHK好き男性(田中正吉)
NHK好き男性(田中正吉)

この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話があります。

NHK好き主婦(三村和子)
NHK好き主婦(三村和子)

1部は自分のために、1部は売ってお金を作るためだたそうです。

蘭学者・佐久間象山の知遇も得て、象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開きます。

 

NHK好き主婦(笹木たえ)
NHK好き主婦(笹木たえ)

開塾は嘉永3年(1850年)とされていますが、いつなのかはっきりしていませんね。

勝海舟の夫妻の終の住処は東京都大田区南千束の洗足池「千束軒」(洗足軒)

晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たりました。

旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画に対して向山黄村に活動資金を与え、編纂阻止工作にあたらせこれを妨害し、結果、この計画は実現には至らなかったようです。

 

独特な談話、記述を理解できなかった者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあったようです。

 

晩年は子供たちの不幸にも悩み続けるなど、孤独な生活を送っていたようです。

幕末から明治と、激動の時代の変わり目に大きな役割を果たした勝海舟は、1899年(明治32年)77歳で亡くなってしまいした。

お風呂上がりにトイレに立ち寄った後に倒れました。
そして、お手伝いさんに生姜湯を持ってくるよう頼んだものの、間に合わずブランデーを飲み、そのあとすぐに脳溢血で意識不明となり、そのまま帰らぬ人となりました。

幕末は幕臣として、明治政府でも海軍大輔や参議兼海軍卿などを歴任した、勝海舟の死因は脳溢血というあっさりとした最後でした。

墓は海舟の別邸 洗足軒のあった東京大田区の洗足池公園にあります。洗足軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っています。

 

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