太宰治は明治から昭和初期にかけて、数多くの作品を残した作家です。
太宰治の死因は心中だったのでしょうか?
太宰治はどんな人物だったのか、子孫がいるのかも気になりますね。
太宰治の死因や子孫についても調べてみました。
太宰治の死因は心中?死去の原因は?
太宰治は1948年6月13日玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺をしました。

その頃、小山初代と結婚するといい、芸妓との結婚は家から反対され、大学卒業までは120円の仕送りはするが、その後は打ち切ると言われます。

その後初代と仮祝言を挙げていますが、実際には入籍はしませんでした。
大学5年目になっており、実家からの仕送りが打ち切られることを案じ、都新聞社(現在の東京新聞)の入社試験を受けました。

結果は不合格となり、鎌倉で首吊り自殺を図りますが未遂で済んでいます。
小山が不貞をしていたことがわかり、今度は初代とカルモチン自殺未遂を図りその後初代と離別し初代ました。

太宰は1938年に石原美知子という女性と見合いをし、結婚を決めます。

1947年に美容師の山崎富栄と出会います。
富栄は太宰の愛人兼秘書のような存在でした。
太宰治は1948年6月13日玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺をしました。

この心中には色々な説があり、富栄による無理心中だったとか、狂言心中だったとか言われていました。

太宰は下駄を思い切り突っ張った跡があり、手をついて滑り落ちようとするのを止めようとした後もはっきりと残っていたそうです。

太宰は本気で死ぬつもりはなかったのかもしれませんし、途中で気が変わったのかもしれませんね。
最後となった小説のタイトルは「グッド・バイ」で、太宰は自身の体調不良や、一人息子がダウン症であることなどを苦にしていたので、自殺を考える理由はありました。
1998年太宰の50回忌を前に遺族が公開した遺書には、妻・美知子宛に「誰よりも愛していました」と書かれ、「小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」と自殺の動機をはっきりと示していました。
太宰治がしたことやどんな人だった?
太宰治は県下有数の大地主だった父・津島源右衛門と母・たねの11人いる子供の中で10番目に生まれた六男でした。
父は県会議員や衆議院議員、貴族院議員などを務めた名士で、津島家は「金木の殿様」と呼ばれるほどでした。
1923年に父が亡くなると、修治は青森中学校に入学し実家を出て下宿生活を送りました。

小説家を志すようになり、「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌を発行したりもしました。
1927年には旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学し、ここでも下宿生活をします。

夏休みに金木の実家に帰っているときに、芥川龍之介の自殺を知りショックを受けた彼は下宿に戻りしばらく引きこもってしまいました。

この頃青森の芸妓・小山初代と知り合っています。
1929年に「学生群」という小説を書き、改造社の懸賞小説に応募しましたが落選してしまい、カルモチンという注射で初めての自殺を図りますが、未遂に終わっています。
1930年に小説家になるべく井伏鱒二の弟子になることができました。
そして小山初代と結婚するといい、当然芸妓との結婚は家から反対され、大学卒業までは仕送りはするが、その後は打ち切ると言われ、家を除籍になり財産分与も与えられないはめになりました。

家を除籍になった10日後バーの女給の田部シメ子と鎌倉の海で再びカルモチン自殺を図り、シメ子だけ死に太宰は生き残ってしまいました。

その後初代と仮祝言を挙げていますが、実際には入籍はしませんでした。
大学5年目になっており、実家からの仕送りが打ち切られることを案じ、都新聞社(現在の東京新聞)の入社試験を受けました。

結果は不合格となり、鎌倉で3度目の自殺を図ります。この時は首吊り自殺だったのですが、やはり未遂で済んでいます。
小山初代が不貞をしていたことがわかり、今度は初代とでカルモチン自殺未遂を図りその後初代と離別しました。

太宰は1938年に石原美知子という女性と見合いをし、結婚を決めます。

1941年には作家の太田静子に出会い、「斜陽」の発刊と前後して太田静子は太宰の子供を産んでいます。

1947年に美容師の山崎富栄と出会っています。
太宰は1948年には「人間失格」や「桜桃」などを書きました。
富栄は太宰の愛人兼秘書のような存在でした。
太宰治は1948年6月13日玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺をしました。

太宰治が自己破滅型の作家という位置づけにあるのは、薬物乱用、度重なる自殺未遂、そして愛人との心中という形で生涯を閉じたことを抜きにしては語れません。

太宰自身も繊細な感受性をもつがゆえに憂うつに翻弄され、さまざまな生きづらさを感じていたようですね。

人間不信ではあるけれど常に人の愛情に飢えている、精神の不安定な人でした。

女性やお金にだらしない性格であったともいえるでしょう。

完璧な人間というのはそれはそれで魅力的ですが、少しぐらいの危なっかしさがあったほうが保護本能がかきたてられ、人として愛されていたのかもしれませんね。

師の井伏鱒二をはじめ、周囲の人々が自堕落な生き方を放っておけずに手を差し伸べていたことからも、人間的な魅力をうかがい知ることができます。
太宰治と檀一雄の関係は?
太宰治と檀一雄は盟友と言っていい程の関係だったそうです。

出会った1933年から召集で交友が途絶える1937年までの間は連日のように連れ立っての放蕩三昧でした。
お互い酔いつぶれたあげく太宰に自殺を持ちかけられ、共にガスを使って実行しかけたこともあります。

檀は当初より太宰の才能を高く評価し、2度目に会った時には直接「君は、天才ですよ」と告げています。

檀自身も当事者の一人になった「熱海事件」とは、どんな事件でしょう
檀一雄は、太宰の妻、初代から、お金を渡され、熱海の宿に宿泊していた太宰を東京に連れ戻すために出向きます。太宰は、そのお金で飲み食いし、さらにふくらんだ借金を返済するため、自分一人東京に戻り菊池寛からお金を借りて来ると言って熱海を後にします。
檀は、人質として宿に残りますが、何日たっても太宰は戻ってきません。そこで檀は東京に戻ってみると、太宰は、師匠の井伏鱒二 の家で井伏と将棋を指していました。激怒する檀に、太宰は「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と呟いたそうです。

檀一雄にとってどれほど腹立たしい経験であっても、そんな経験から人を感動させるような作品を生み出した太宰の手腕の巧みさは評価されるのかもしれません。

実生活がひどいものでもそこから優れた作品が生まれるのなら、許容されるかもしれませんね。
太宰治の家系図や子孫は?本名は津島修治!
太宰治は県下有数の大地主だった父・津島源右衛門と母・たねの11人いる子供の中で10番目に生まれた六男でした。本名は津島修治です。
太宰には愛人太田静子との間にも娘が1人いるということなので、太宰の子供は計4人です。

太宰と妻・美知子の間に1944年の8月10日、長男の正樹が誕生しています。

彼は生まれつきダウン症でした。病弱だったためか、15歳のとき肺炎で亡くなっています。
長女の園子さんは元厚相である津島雄二さんと結婚し、一男一女をもうけています。
長男の敦さんも、父親と同じ自由民主党所属の衆議院議員。

そのため、園子さんについては政治家の家族として認識している人も多いのではないでしょうか。

園子さんは五所川原市金木町で開催される太宰の生誕祭には、毎年出席されていたようです。
園子さんは、2020年4月20日、呼吸不全で亡くなっています。
次女の里子さんは昭和から平成にかけての現代文学を代表する女性作家で作家でペンネームは津島佑子(つしま ゆうこ)です。
1歳の時点で太宰が亡くなっているので、父の記憶はないですが、その文才は確実に受け継ぎました。

湾岸戦争や東日本大震災に影響され、社会問題を積極的にテーマに取り入れています。

2016年に68歳で、肺がんにより亡くなるまで、旺盛な創作意欲でファンの心をつかみ続けた作家です。
太宰と太田静子の娘は、太田治子(おおた はるこ)さんで、1947年11月12日生まれの女性作家です。
太宰治が飼っていた犬とは?生きた時代や出身は?
『畜犬談』では、主人公が散歩中についてきた犬を「ポチ」と名付け飼う様子が描かれています。
主人公夫婦は、甲府から東京の三鷹村に移り住むことにしました。
ところがそんな矢先、「ポチ」が皮膚病にかかってしまったのでした。
夫婦は重大な決意を固めました。その決意とは―――「ポチ」を殺そうと思ったのです。
ポチは薬品がぬられた肉を食しますが、薬品が効かなかったのです。
「あいつには、罪がなかったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ。弱者の友なんだ。僕は、ポチを東京へ連れてゆこうと思うよ

「弱い者=ポチ」に、作者・太宰治が自分自身を重ねているような気がしますね。
太宰治の仕事や年収は?偉人の年収houmuch?
太宰治は、近代日本文学を代表する作家です。

太宰治の年収は昭和22年21万円と言われています。

この年に『斜陽』の大ヒットで流行作家となりました。翌23年の6月に心中死していますので太宰治の最高年収は昭和22年の金額と思われます。
太宰治の年表は?
太宰治は1909年、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)にて、県下有数の大地主、津島源右衛門の六男、11人兄弟の10番目の子として生まれます。
本名は津島修治。太宰治は後のペンネームです。
父は地元の権力者であったと同時に衆議院議員になるなどで多忙を極めており、また母は病弱だったため、ほとんどの世話は叔母や使用人にしてもらっていたとのことです。

小学校時代は「学校始まって以来の秀才」と呼ばれていたそうです。
1927年7月のこと、下宿先から実家の金木村へ帰省していた太宰の耳に、芥川龍之介が自殺したというニュースが飛び込んできます。

太宰は中学時代から芥川の熱狂的なファンだったため、この事件をきっかけに自室に閉じこもるようになったそうです。

1929年には公金を無断流用した校長を辞職させるためのストライキに参加し、逮捕されることを恐れて一度目の自殺未遂をしています。。
1930年から東京帝国大学へ進学します。
芸者の初代との結婚を巡って実家からは縁を切られ、かと思えばその直後に銀座のバーで知り合った女性と浮気をし、心中未遂。

大学は授業料が払えずに除籍され、就職も上手くいかずにまた自殺を図りますが未遂に終わります。

初代との結婚生活にしても鎮痛薬パビナールの中毒になり、初代の着物を売ったり、借金をしてでも服用しようとする始末です。
このとき結局、師匠の井伏鱒二の計らいで強制入院させられますが、その間に初代が不倫をしたことを知った太宰は、またしても心中未遂を図ります。

そんな彼を元気付けたのが、1938年に井伏鱒二が紹介した2人目の妻、美智子でした。
芥川賞候補になった際に異議を唱えた川端康成からも称賛され、見事に再起してみせたのです。

ですが、結婚したばかりの1941年には早速、「小説の書き方を教えてほしい」と頼ってきた、作家の太田静子と不倫関係になります。
また1947年には美容師の山崎冨栄と不倫。

静子との間にも娘がいたといいますし、冨栄はよく働く女性で、太宰の秘書のような立ち位置だったそうです。

1948年執筆の『人間失格』『桜桃』などは冨栄の助力により出来上がった作品だといわれています。
太宰治と猫の関係は?
太宰治の作品の中に「ねこ」という短い作品があります。
猫は主人公と一対一になると主人公に興味を示します。

太宰治とねこが重なるように感じますね

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