湯川秀樹の子孫と家系図は?医者と学者の血筋を引く立派な子孫たち!

湯川秀樹の家系図、子孫や年収は 偉人

湯川秀樹さんは日本人として初のノーベル物理学賞を受賞した昭和期の物理学者です。

湯川秀樹さんの子孫には誰がいるのでしょう。

湯川秀樹さんは、幼少期どのように過ごしていたのかも気になりますね。

湯川秀樹さんの子孫や幼少期の様子について調べてみました。

 

 

湯川秀樹の子孫は誰?

湯川秀樹には2人の息子がいました。長男の春洋と次男の高秋です。

長男の春洋は、父とは異なる道を選び、芸術の世界に進みました。

近世演劇研究家として知られる春洋は、日本の伝統芸能に深い造詣を持っていたと考えられます。

 

父の秀樹が物理学の分野で革新的な理論を打ち立てたように、春洋も演劇研究の分野で新しい視点を提供したのではないでしょうか。

次男の高秋は父の後を追うように科学の道を選びました。

高秋は物理学者となり、父の研究を引き継ぐ形で素粒子物理学の分野で活躍しました。

父子で同じ分野に携わることは珍しく、湯川家の科学への情熱が感じられます。

兄弟でこれほど異なる道を歩んだことは、湯川秀樹の教育方針が影響しているかもしれません。

秀樹は子供たちに対して、自分の興味や才能に従って進路を選ぶことを奨励していたと言われています。

このような自由な環境が、春洋と高秋それぞれの個性を伸ばすことにつながったのでしょう。

春洋の演劇研究と高秋の物理学研究は、一見全く異なる分野に見えます。

両者とも人間の営みや自然の法則を深く理解しようとする点で共通しているとも考えられます。

湯川家の息子たちは、それぞれの方法で世界の真理を追求していたのかもしれませんね。

春洋の研究対象である近世演劇には、当時の社会や人々の価値観が反映されています。

高秋が取り組んだ素粒子物理学は、物質の最小単位を探る学問です。

両者とも、物事の本質を追求するという点で、父・湯川秀樹の精神を受け継いでいると言えるのでしょう。

湯川家の3人が、それぞれの分野で深い探究心を持って研究に取り組んだことは、日本の学術界にとって大きな財産となったと考えられます。

春洋の研究成果は、日本の伝統芸能の理解を深めることに貢献したことでしょう。

高秋の研究は、日本の素粒子物理学の発展に寄与したと推測されます。

湯川秀樹の息子たちは、父の名声に頼ることなく、自らの道を切り開いていったのです。

自分の興味や才能に忠実に生きること、そして選んだ道で真摯に努力を重ねることの大切さを教えてくれています。

湯川家の事例は、親の職業や期待に縛られることなく、自分の道を探求することの重要性を示しているように思われます。

同時に、異なる分野であっても、根底にある探究心や真理追求の姿勢は共通していることも教えてくれます。

湯川秀樹と息子たちの歩みは、科学と芸術という異なる分野が、実は深いところでつながっているという事実を示唆しているのかもしれません。

この家族の物語は、学問の多様性と普遍性を体現していると言えるでしょう。

湯川家の3人が残した功績は、今後も日本の学術界に大きな影響を与え続けることでしょう。

彼らの探究心と創造性は、次世代の研究者たちにも受け継がれていくことが期待されます。

孫がいるため、直系の子孫は続いているようです。

湯川秀樹の子孫は今何人?

湯川秀樹さんの子供には息子さんが2人います。長男の春洋は演劇研究家で次男の高秋は物理学者です。

湯川秀樹さんの子孫には孫がいることはわかっているため、直系の子孫は続いているようです。

遠縁にあたるバイオリニストのダイアナ湯川さん、政治家の柿澤弘治(かきざわ こうじ)さんがいます。

湯川秀樹の子孫たちは現在、何を営んでいる?

湯川秀樹さんの子供には、演劇研究家の長男と物理学者の次男がいます。

湯川秀樹さんの兄弟、子供は各分野で活躍していたことがわかっていますので、子孫も活躍されていることと思います。

また遠縁にあたりますが、ダイアナ湯川さんはバイオリニスト、柿澤弘治(かきざわ こうじ)さんは政治家です。

湯川秀樹の子孫は学者が多い?

湯川秀樹の実父・小川琢治は地質学者、長兄・小川芳樹は冶金学者、次兄・貝塚茂樹(旧姓・小川茂樹)は東洋史学者、弟・小川環樹は中国文学者と学者一家の家族でした。

長兄の小川芳樹(おがわ よしき)は、著名な冶金学者で、論文「亜鉛精錬の基礎的研究」により工学博士となりました。

原子力に関する知識の普及にも尽力し、1957年には、東京大学工学部で原子力講座の開設に尽力しています。

次兄の貝塚茂樹(かいづか しげき)は東洋学者として活躍しました。

中国古代史の研究において、文献学ではなく、甲骨文字や金文など出土資料を活用した研究手法を日本で初めて提唱しました。

文学博士号を受け、文化勲章を受章するなど、輝かしい実績を残しています。

弟の小川環樹(おがわ たまき)も中国文学者で、啓蒙書や解説書を多数残しました。

兄弟は学者が多く各分野で活躍していたことがわかりました。

湯川秀樹の家系図は?

湯川秀樹の家系図、子孫や年収は

湯川秀樹の家系図を調べてみました。

◆湯川玄碩
父:
母:
妻:
長女:
二女:
三女:湯川ミチ(湯川玄洋の妻)
養子:阪部譲三郎【湯川玄洋】(阪部魯臾の二男、★西下正己)

◆阪部譲三郎【湯川玄洋】
1867年 誕生
大阪湯川胃腸病院長
父:湯川魯臾
母:
養父:湯川玄碩
養母:
妻:
長男:湯川蜻洋
妻:湯川ミチ(湯川玄碩の三女)
長女:湯川伸(【湯川錬】の妻)
二女:湯川澄子【湯川スミ】(小川秀樹【湯川秀樹】の妻)
養子:【湯川錬】
養子:小川秀樹【湯川秀樹】(京都帝国大学教授 小川琢治の三男)

◆湯川蜻洋
1891年 誕生
大阪胃腸病院
父:阪部譲三郎【湯川玄洋】
母:
妻:山本京子(大審院検事 山本辰六郎の娘)
長女:湯川淑子(【湯川永洋】の妻)
女:湯川洋子
養子:【湯川永洋】

◆【湯川永洋】
1912年 誕生
1949年 大阪胃腸病院院長(-1950年)
1950年 湯川胃腸病院院長
父:
母:
養父:湯川蜻洋
養母:山本京子(大審院検事 山本辰六郎の娘)
妻:湯川淑子(湯川蜻洋の長女)
長男:湯川研一
長女:湯川捷子(医師 玉置啓也の妻)
二女:湯川ひろみ
妻:小園陽子(小園俊夫の二女)

◆湯川研一
1942年 誕生
湯川胃腸病院
父:【湯川永洋】
母:湯川淑子(湯川蜻洋の長女)
妻:作田郁子(作田久司の長女)


◆湯川ひろみ
1951年 誕生
1997年 湯川胃腸病院理事長
父:【湯川永洋】
母:湯川淑子(湯川蜻洋の長女)



◆【湯川錬】
1903年 誕生
父:
母:
養父:阪部譲三郎【湯川玄洋】
養母:湯川ミチ(湯川玄碩の三女)
妻:湯川伸(阪部譲三郎【湯川玄洋】の長女)



◆小川秀樹【湯川秀樹】
1907年 誕生
1932年 京都帝国大学講師
1936年 大阪帝国大学助教授
1939年 京都帝国大学教授
1943年 文化勲章受章
1946年 日本学士院会員
1949年 ノーベル物理学賞受賞
1947年 京都大学教授
1970年 京都大学名誉教授
1981年 死去
父:小川琢治
母:小川小雪(小川駒橘の長女)
養父:阪部譲三郎【湯川玄洋】
養母:湯川ミチ(湯川玄碩の三女)
妻:湯川澄子【湯川スミ】(阪部譲三郎【湯川玄洋】の二女)
長男:湯川春洋
二男:湯川高秋

◆湯川春洋
1933年 誕生
平凡社入社
父:小川秀樹【湯川秀樹】
母:湯川澄子【湯川スミ】(阪部譲三郎【湯川玄洋】の二女)
妻:篠原由規子(篠原義雄の三女)
長男:湯川透
長女:湯川弥生

◆湯川透
1972年 誕生
父:湯川春洋
母:篠原由規子(篠原義雄の三女)


◆湯川高秋
1934年 誕生
講談社入社
父:小川秀樹【湯川秀樹】
母:湯川澄子【湯川スミ】(阪部譲三郎【湯川玄洋】の二女)


 

湯川秀樹の年収は?

湯川秀樹さんは日本人初めてのノーベル賞を受賞した型

湯川秀樹の幼少期
・引っ込み事案
・体育や図工が苦手
・国語の授業でも答えられない
・人前で話すのが苦手
・算数だけは好きだった

湯川秀樹さんの性格は引っ込み思案ので、両親からも心配されていた。自分が何をしたいのか、なかなか見つけられなった人が、好きなものを見つけて大きな成功を成し遂げた人。
算数が好きになり、公式を知らなくても、自分で答えを導き出すことができて、難しい問題にもどんどん挑戦するようになった
ある日、秀樹が図書館で、『量子論』という物理学の本に出合いました。これが物理学に出会ったのです
さて、ここからは、湯川秀樹が一番年収が高かった42歳の年収です。
25歳 養子結婚1年目
26歳 大阪帝国大学の物理学科講師 年収900円
現在の価格:年収360万円
この頃一般家庭の平均年収:436万円
27歳
(1934年)
人生初の論文『中間子論』を発表
41歳
(1948年)
アメリカ・プリンストン高等研究所の客員教授
アインシュタイン(1955年没)に面会
アインシュタイン年収:5754万円
42歳
(1949円)
ノーベル賞を受賞
(太平洋戦争終から4年後)
ノーベル賞の賞金

講演料と書籍に印税は含まない

7200万円
(ノーベル賞の賞金:5100蔓延
プリンストン高等研究所とコロンビア大学:2100万円)
46歳
(1953年)
京都大学基礎物理研究所の所長に就任
74歳
(1981年)
死因:肺炎に心不全を併発して

 

湯川秀樹はノーベル賞の賞金の使い道は、子どもたちに野球のグローブを買ってあげたと答えたが、実際には、ノーベル賞の賞金を全て、これまで湯川秀樹がお世話になった、京都大学への寄付や研究支援に全額を投じた
湯川秀樹の最後の手帳に残されてた言葉は
『一日生きることは、一歩進むことであれ』

湯川秀樹博士のような先駆者が示した道徳的な模範は、科学と教育への投資が未来を築く力となることを教えてくれます。彼の寄付行為は、個人としてだけでなく、日本全体の科学技術発展に対する貢献としても高く評価されています。

湯川秀樹の幼少期はどんな風に過ごしてた?

湯川秀樹さんは生まれたのは現在の東京都港区六本木でしたが、父が京都帝国大学の教授となったため、1歳で京都に転居しました。

母方の祖父・駒橘(こまきつ)は、元紀州藩の藩士で、漢学や英語が得意な知識人でした。

秀樹は幼少期から、教養ある祖父に「論語」など中国の四書五経の素読を習いました。

意味を理解できないままだったものの、祖父に続いてひたすら復唱した結果、漢字を覚えて読書が容易になったそうです。

おかげで学校でも優秀な生徒でしたが、声が小さく、目立たない存在だったといいます。

父親からは、「何を考えているか分からん」と言われたこともあったそうです。子どもの頃のあだ名は「イワンちゃん」。叱られても弁解せず、面倒な事はすべて「言わん!」の一言で済ませたからだったそう。
ただ、本人は当時人気だったトルストイの「イワンの馬鹿」が由来では、と後に回想しています。

元々は誰かと会話するよりも、文献を相手に研究する方が性に合っていたのかもしれませんね。

中学時代に「荘子」に出会い生涯心酔。西洋の歴史書にも夢中になり、外国小説の翻訳も手あたり次第に熟読しています。

親友は朝永振一郎さんで2人はライバルであり、よき友人でした。同じ中学・高校・大学と同期入学、揃って理論物理学の道へ進み、京都帝大の研究室では机を並べて研究に没頭。朝永氏も1965年にノーベル物理学賞を受賞しています。

幾多の栄誉を受けた湯川さんですが、実は少年時代は孤独で、それが後の平和思想と平和運動に貢献する原動力になったようです。

 

湯川秀樹が物理学に興味を持ったきっかけは?

少年時代から非常に賢く、中学を4年で終え、飛び級で三高(現京都大学)に進学します。

幾何学にも熱中し、高等学校では哲学書に夢中に。哲学者・田辺元氏の「科学概論」や「最近の自然科学」を読み、物理学への関心を高めていきました。

高校生のころから物理学の文献を求めて、丸善京都支店の洋書コーナーに通い、数学と物理学の本棚の前で長い時間を過ごしたということです。

 

高校生の時に、本屋で運命的な一冊の本と出逢います。フリッツ・ライへの「量子論」です。この本をきっかけに大学で物理学を極めようと決めるのです。
幼少期の科学者の卵らしいエピソードとしては、「物質はいったいどこまで小さくすることができるのか」という問題について兄と議論になり、兄は「分子が一番小さく、それ以上小さくできない」といい、湯川さんは、「もっと小さい単位に分けることができる」と主張。結局、兄に言い負かされてしまった湯川さんですが、その後分子よりも小さい原子が登場し、さらに小さな原子核と電子が発見。幼いころから、既に物理学者であったということがこの話から伺えます。

湯川秀樹夫妻の終の住処はどこ?

 下鴨神社の糺の森にほど近い下鴨泉川町に、湯川秀樹さんが1957年に購入し、1981年に亡くなられるまで暮らした住宅があります。

  • もともと、1933年に住宅として建設された建物を、戦後、占領軍が接収し、駐留軍の宿舎として使用していたといいます。
湯川さんは、1949年に日本で初めてのノーベル(物理学)賞を受賞しましたが、その後、多忙を極めて体調を崩すことがあり、ゆっくり休める住宅を求めたといいます。

そこで、庭もある同建物を入手し、居宅部分を修繕するだけでなく、荒れていた庭も庭師と相談しながら造園したそうです。

 

同居宅の本体部分や主庭部分は、意匠や近代建築物としての価値が高く、京都市によって2013年に「京都を彩る建物と庭園」、2019年に「重要京町家」に認定・指定されています。

湯川秀樹が購入し、想いを込めて整備して『終の住処』とした住宅は、各時代の遍歴が残っていることも大変興味深く、昭和史を語る貴重な住宅遺産です。

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